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眼瞼下垂と共に生きた半生

−     誕生〜33歳     −


dicdic0歳
◆手術を拒み続けた幼年時代◆

   眼瞼下垂の治療が、体の健康のために必要かと言えば、「必要はない」と思います。 眼瞼下垂そのものが、体の他の部分に影響がないのはもちろん、視力を下げているほどの ものでなければ、特に治療を行わなくても生きていけます。寿命が縮まることもありません。 眼瞼下垂の人でなくても、普通に「目が細い」人はいます。片方の目が眼瞼下垂で あったとしても、「見えている」状態であれば大丈夫だと思います。ただし、片方の目が あまりにも閉じすぎていて機能していない場合、遠近感がつかめなくなっている可能性が ありますので、この場合は治療をした方がよいと思われます。 眼瞼下垂は切り傷のように、時間がたてば自然治癒するような病気ではありません。 治すためには外科的な手術が必要です。つまり、まぶたにメスを入れるわけです。 私の場合は、左右の眼の大きさが極端に異なっていたものの、視力には全く問題が無く、 左右ともに視力は全く同じか、閉じた方の眼の方が視力が良いことが多く、 「見かけだけの問題なら」と、治療を拒んできました。「瞼にメスを入れる」ことの 恐ろしさのほうが先に立っていたこともあったでしょう。


dicdic0歳
◆眼瞼下垂と共に生きた青春時代◆

   見かけの第一印象が普通と違っているのではないかと意識したのは、小学校に入ってからです。 小学校3年くらいまでは友達にも特に何も言われませんでしたが、4年生ぐらいから、 眼瞼下垂を理由としたイジメが始まりました。中学校の卒業までにつけられたあだ名の多くは、 これにまつわるもので、
1.片目つぶれ 
2.片目のおやじ 
3.片目びっこ 
4.くぎ抜き
  (くぎ抜きで片目をくり抜かれたようだから)
5.独眼竜 または 独眼竜正宗
※  片方の目を人差し指でつぶして(または片方の目を人差し指でつり上げて)、あだ名を野次る

特に1〜3を言われたときには、私も相手につかみかかり、教室で大乱闘になったことが ありました。その子は私に何度コテンパンにやっつけられても、同じ悪口を繰り返しました。 それでも私は治療に踏み切る決心がつかなかったのです。女の子から言われたときは相当の ショックでした。しかし小学校の教室というのは凄いもので、いじめっ子の矢面に立って 守ってくれるような超心優しい女の子がクラスに1人はいるものです。そんな子に慰められたり、 同情の輪を広げてくれる友達たちのおかげで乗り切ることができました。
  義務教育である小学校や中学校では、「眼科検診」というのが、最低でも年に一度はあります。 学校に検診に派遣された医師は、体育館で何百人という数の生徒をテキパキと捌いていきますが、 私の順番になると決まって、数分間も私の目を覗き込みます。中学校の時には慣れっこになっていましたが、 やはり気分の良いものではありません。
  高校生になると、クラスメイト達もいい加減、見かけだけの判断をしなくなってきます。大人になってくるので、 目にはつくものの、みんな気を遣って気にしない振りをしてくれていたのだと思います。 実際、いじめや悪口はピタリと止まり、大学を卒業するまで自分を哀れに思うことも殆ど なくなっていました。しかし友達の中には、私の意志を尊重しながらも、遠回しに治療を勧めて くれる人もいました。
  お酒屋さんでアルバイトをしたことがありました。配達が中心でしたが、旦那の代わりに玄関に 立つと、出てきた奥さんに怪訝な顔をされたことがあります。そんなときは、配達した品物を 見る振りをしながら少しうつむき加減になるなど、少し気を遣っていました。
将来の就職のことを見越して、手術による治療を考え始めましたが、「いまさら」といった感情や 手術の手続きに対する億劫な感情が先に立ち、チャンスを逃していました。


2005年
◆見かけだけで判断しないということ◆
   大学を卒業しようという年、母校の中学校で教育実習をさせてもらいました。実習生は数名 いましたが、私はこの眼瞼下垂のおかけで、生徒たちにいち早く覚えてもらえたと思います。 教育実習の期間中、担当教員の配慮で、道徳の時間をまるごと任されたことがありました。 指導教案もいらないと言われ、内容についても完全に担せてもらい、自由度のかなり高い授業を 行いました。当日は担当教員すら立ち会わず、かなりリラックスした体制で指導に臨みました。 私はこの時、道徳の教科書も使わず、両親のいない環境で育ったことなど、自身の生い立ちから 語り始め、眼瞼下垂についても意識的に触れました。私の第一印象についてどのように思ったかを 生徒達から聞き出しながら、人の見かけの印象というものは、人の目に最初に飛び込んでくる ものではあるものの、それだけで人を判断することがいかにナンセンスであるかを語りました。 この授業は大成功で、教員は一人も参観していなかったにもかかわらず、学校中の教員の間で 大きな話題となりました。
教員の夢は果たせませんでしたが、大学を卒業後に学習塾の講師となり、折に触れて同じことを 塾の生徒達に語りました。子供達が、私の眼瞼下垂をどのように思っていたかは不明です。 左右の眼の大きさが違っていることに気がついていたでしょうが、それを理由に私に対して悪い 態度をとる生徒はいませんでした。この塾講師の時代は、生徒達にも他の先生方にも大変恵まれた と思います。


酔っぱらってます
◆本気で考え始める◆
   1999年、学習塾を辞めて一般企業への就職活動を始めた頃、履歴書に貼り付けた自分の写真を見て、 眼瞼下垂が合否を左右してしまうのではないかという恐怖にさいなまれました。証明写真では、 少しあごを引くことを求められますが、私の場合それをしてしまうと、閉じた方の目がますます 潰れたように見えてしまうのです。本気で治療を考えましたが、治療費の捻出について考えているうちに 採用が決まり、新しい職場での必死さに、またしても治療は先送りとなったのです。


手術の半年前
◆結婚を控えて◆
   2006年、結婚を控えて彼女(現在のカミさん)に治療を勧められました。私はようやく治療への決意を固め、 病院探しから始めることになるのです。




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