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眼瞼下垂治療の顛末@

−     34歳     −



◆初診◆
信濃町眼科(東京都新宿区)
   2006年3月1日、会社帰りに少しだけ遠回りして信濃町駅(中央線各駅停車)に 降り立ちました。この信濃町は、私が小学校2年〜3年生の時に住んでいたところでした。 私には覚えがありませんが、ここの信濃町眼科に当時お世話になっていたようで、 眼瞼下垂の治療にも、まずこの病院に行ってみるように母に勧められていたのです。 信濃町眼科は町医者のようなこぢんまりとしたところで、この日、私は簡単な検査を受けて、 眼瞼下垂を治療したい旨を先生に伝えると、先生は、
「大丈夫。必ず治ります。あなたはまだ若いのだから、治すべきだと思います。」
と、大変心強い言葉を返してくれました。ただし、信濃町眼科は、手術をする施設が あるわけではないので、優秀な先生と施設が揃っているお茶の水の井上眼科を 紹介してくれました。その上で紹介状を書いてくださったのです。
(紹介状作成費として3000円取られました)

   信濃町眼科に紹介された井上眼科は、私が小学校に上がる前、 母と行った記憶がありました。5歳だった私は井上眼科で、眼瞼下垂の手術ができるか、 すべきかを見極めるためのかなり面倒な検査を散々受けたのです。 当時私は井上眼科の先生の前で「手術は受けたくない」 という意思を伝えていました。 それで母も、「本人がそういうなら、もう少し成長してからでも」と言い、 手術は見送られ、今日に至っていました。
私はその出来事をハッキリと覚えており、 「いよいよ治すべきその時がやってきたのだな」と思いました。




◆井上眼科@◆
   2006年3月13日信濃町眼科で作成してもらった紹介状を携えて、東京・お茶の水の 井上眼科を訪れました。休日の井上眼科はとても混雑するので、平日を選び、 会社を休んで行きました。当時まだ結婚前のカミさんが付き添ってくれました。 お昼過ぎにお茶の水に着き、駅前で食事を済ませ、井上眼科の受付に行きました。 案の定ものすごい混雑で、平日とは思えないほど。 1時間以上待ってようやく待合室から診察室前へ移動し、 診察室の前で更に1時間以上待ちました。 ようやく回ってきた診察のローテーションでしたが、診てもらえたのは5分間程度。 紹介状には数秒ほど目を落としただけで、そそくさとデスクの上に置かれました。 今考えると、紹介状はあってもなくてもどちらでも良かったかもしれません。 3000円もかかって取得した紹介状がこの程度に扱われたことに私は少々憮然としましたが、 次回来たときに、眼瞼下垂専門の先生に診てもらえる運びとなりました。 次回の受診は4月1日と決まりました。病院を出た時にはもう夕方でした。 わざわざ会社を休んでの通院だったわりに思ったほどの進展がなかったことに、 少し不安になりましたが、大病院というのはこういうものなのだと、一歩前進したつもりで 納得することにしました。






◆井上眼科A◆
   2006年4月1日の土曜日、前回の診察後にとった予約の通り、 お茶の水の井上眼科を受診しました。前回と同様、大変長い待ち時間の末、 私の診察の順番がやってきました。診察室に入ると、前回の先生とは違う、 貫禄のある、俳優の三國連太郎さん似の、いかにもベテランの医師という感じの医師が 待ち構えていました。 前回ともう一つ違っていた点は、診察室の中に、医師とは別に、医師のタマゴと思われる数名の職員がいたことでした。 総勢6〜7名に取り囲まれる中、診察が始まりました。
   三國連太郎さんに似た雰囲気の医師に、目にライトを当てられながら、1つか2つ簡単な質問をされました。 三國連太郎さんに似た医師が私の目にライトを当てるたび、部屋の中にいた医師のタマゴ達が一斉に 私の目を覗き込むように集まって観察していました。 一通りのやりとりを終えると、医師のタマゴ達は壁寄りに下がったり、中には診察室から出て行く人もいました。
   三國連太郎さんに似た医師は私に訊きました。
「なんか治さなきゃなんない事情でもあんの?」
ここに及んでこの質問は、私にとって意外だったので、 とっさに返す言葉を見つけることができず、
「えっ?」
と一言返したきり、黙ってしまいました。
私は自問自答しました。
「確かに今まで治療を避けてきた。何故、『今』なのか? 彼女に勧められたから?  大人になったら手術しようと決めていた。『大人になったら』の時がたまたま今になった?」

一瞬の間にいろいろな考えが頭をよぎりましたが、医師は続けて言いました。
医師:「あんた、この目でずっと生きてきたんでしょう?」
私:「はぁ」
医師:「仕事もしてんでしょう。この目だからって結婚できないってわけじゃないでしょう?」
私は、「そろそろ大人になって落ち着いたことだし、ここらで治療を」などというつもりで治療に踏み切ろうとしている自分の考えが 見透かされているような気持ちになりました。背中を押してくれたのは彼女です。「結婚を機に」という節目の意味の他にも、 将来生まれてくるであろう、自分の子供に対する配慮の気持ちもありました。それらの思いを、この場でもう一度整理し直す必要が あるのではないかと考えましたが、この慌ただしい大病院の一室での医師との対話でそれをするのには、あまりにも時間が限られていました。
医師:「あんたねぇー、あんたぐらいはぜんぜんマシな方なんだよ。 日常生活に支障がないなら、治さなくったって生きていけるんだから、ぇえ? まぁどうしてもってことなら手術もやるけどね。」
   医師の目の前で、しかも私一人で「治療する or 治療しない」の決断をあらためて 迫られました。私は焦りましたが、「今ここでは決められない」と考え、黙ってしまいました。
医師:「そのへん、もう一度考えていらっしゃい」
私は「はい」と応えるしかなく、診察室を出てきました。

   井上眼科二度目の診察にして、振り出しに戻ってしまったことに、私はすっかり肩を落としてしまい、 彼女(いまのカミさん)に電話をかけました。前回の受診では井上眼科まで付き添ってくれ、 今からでも治療する甲斐はあるんだと言ってくれた彼女に今日の結果を伝えるのは大変辛かったです。


眼瞼下垂と共に生きた半生                  眼瞼下垂治療の顛末A

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