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青嗣の快楽

竹田青嗣の「現象学入門」を読んだ。
竹田先生の本はこれで何冊目になるだろうか?

竹田先生といえば、圧倒的に「現象学入門」が有名で、
竹田先生の本は数えきれないほど読んでいる僕が、
今更という感じではあったが、やはり素晴らしい本だった。

竹田先生の文章に引きつけられる人は多いようだ。
僕は今でも、先生の言葉の節々に時折、詩のように
ふっと心にストレートに入ってくる言葉を感じることがある。
そんな瞬間に、「ああ、読んでて良かったな」と感じる。

ヒット曲の特性の一つに、
「ワンフレーズが長い曲はウケがよくなる」
と、以前このブログで書いた。
日本語の場合、だらだらと続く文章は嫌われる(私のように)。
しかし、逐語的に意味を理解していきながら次第に意味がスゥーっと
通ってくるような感覚を覚える竹田先生の言葉は、
ワンフレーズが長い旋律のようにしばらくの間脳味噌をキャッチして
離さないような魅力を感じる。

日常のシーンを想像させる言葉から始まり、哲学の教義的内容に対する
理解の高みまで引き上げようとする力には、毎回びっくりする。

   「正しさ」 とは、ある特定の理想状態を作り出すことであるより、多様で自由な諸関係から生じる諸矛盾や諸問題をうまく調停し、つねに多くの人間が納得できるような、より合理的で公正な関係のあり方を作り出してゆく努力、ということである。 こうして、各人の多様な価値観の承認が前提となるかぎり、ある絶対的な価値観や世界観を 「正しさ」 の特定の内実とすることはできなくなる。 
  一人の人間の 「本質」 は、単に彼がどんな境遇、どんな身分、どんな意見を持った人間か、ではなく、どのように自分を表現するか、という点に現れる。 彼が自分の問題をどのような仕方でもち、これをどのように語り、どのように対処し、行動するか、その 「仕方」 が彼という人間の 「内実」 なのである。 
  (竹田青嗣 『哲学ってなんだ』)


  一般的に言って、つい差別してしまう体質の人は、自分の自然なアイデンティティに不安があるからだと言える。 自分なりの自己価値をそれなりに持っている人は、他人を差別する内的な理由が少ない。 自己価値に不安があるほど、そういう機会があると無意識に他人の価値を相対的におとしめ、自分のアイデンティティを引き上げようとするのだ。 だからこういう態度はその人自身にとっても、一つの危機でもあるといえる。 ぜなら、もし自分が世間的な一般価値からずれてしまったとき、決定的な打撃を被ることになるからだ。 勉強できるのが偉いとか、金持ちが偉いとか、そういう一般価値の中だけに自分を投げ込んでいると、自分が一般価値の秩序からこぼれて挫折したときには、自分を救うことができない。 違う考え方ができないからである。 要するに、その人は狭い価値観、世界像の中に自分を閉じ込めている。 つまり世間一般ルールをわれ知らず絶対視しており、うまく行っているときはいいが、少しでもこの価値規範から外れると結局自分自身を苦しくするのだ。 
  (竹田青嗣 『哲学ってなんだ』)


  社会が一つの大きな目的を持ち、そのことで人間の欲望と価値が均一化され、生の目標と意味が単一化するなら、人間の 「自由」 の本質はかぎりなく希薄になり、それは、単なる役割承認と個別的な欲望充足の可能性という場面にまで縮小されるだろう。 これに対して、多様な欲望と価値が存在し、したがって相互の調整と承認の努力があり、その努力が新しい人間的価値を作り、またそれが自由な文化と言論のゲームとして成立する場面において、はじめて人間的自由の新しい本質が展開するのだ。 
  (竹田青嗣 『人間の未来』)


  たしかに人間の意味の世界は 「言語」 によって編まれている。 しかしわれわれは生の経験の中でつねに、決して言葉によって表現できない前言述的な、豊かな 「意味」 の世界が存在することを知っている。 われわれはある前言述的な感覚に押され、それを他者と共有しようとする気持ちにうながされて、はじめてそれを 「言語化」 します。 
  (竹田青嗣 『現象学は《思考の原理》である』)


  彼は生の進みゆきが、なぜか常に不幸の痕跡として暮れ残ってしまうような自分の内部から、目をそらすことができないのだ。
  (竹田青嗣 『陽水の快楽』)


竹田先生は哲学者として現代を見つめ、資本主義の限界や
言葉による完全な意思疎通の不可能性を説きながらもなお、
それと真正面から向き合い努力することの意味をうったえている。
これこそ真の哲学者だと思う。
僕なら、この世のすべてをエポケーして静かな生活を送りたいところだが、
先生は現象学の大家でありながら、なお、この世の不可能性に取り組む
ことの意味を見出しているのである。

  理論や論理というものを、わたしたちはもうほとんど信用していない。当然のことで、言葉はどのようにも使えるしなんとでも言えるものだ、という景色をさんざん見ているからだ。 理論というと毛嫌いしたり、逆に、何でも論理の体裁をなさなければ信用できないという人もいる。しかし論理とは、人を好きになったりする体験と同じで、それに向き合う人間の率直きだけがその体験をよく生かすのだ。要するに、言葉を使って何とでも言えるという実感と、しかし論理上たしかにこう考えるほかないという実感の間を、言葉というものは生きて動いている。この振れ幅の中に、わたしたちが言葉というものに対して抱くさまざまな疑問の根があるのだ。
  (竹田青嗣 『現象学入門』)


う〜ん....。竹田先生は詩人だと思う。

2010/06/19

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