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思考停止に没入する日本企業

私の勤めている現場は、近く、大きなシステム更新を控え、 みな忙しそうにしています。

今時の企業人が仕事をする上で、非常に神経質になっているのが、 「コンプライアンス」という問題です。
このコンプライアンスが、「伝統」「効率」「低コスト」「時間短縮」「分かりやすさ」 「軽ストレス」よりも過剰に重視されているのが今の現場です。

今や、「法律遵守」という意味合いで使われることが多くなったこの 「コンプライアンス(以下"コンプラ")」ですが、本来の意味は、 「法令の背後にある『社会の要請』と,自分たちの活動との  関係を総合的に考えること」 郷原信郎 桐蔭横浜大学教授 となります。
ここで、「考えること」となっていることに留意したいと思います。

『社会の要請』の中には、顧客に対する良心的サービスも含まれていると 思います。もちろん、法律の許す範囲での話です。「コンプライアンスマニュアル」が 配布された時、その扉に書いてあった趣旨もこれと同様の内容でした。

そうです、あくまで「手段」として「コンプラ」なのです。

しかし今や、「それはコンプライアンス的にNGです。」という言葉を無批判に 受け入れるという状況にはまり込んでいます。郷原さんの言葉を借りれば、 コンプラは、いわば印籠として使われちゃってるところがあるわけです。  属人化を避け、しかも分業化を徹底する思想を盛り込んだコンプラは、 責任(をおっ被さる仕事)を避けるための口実としてはとても効果的です。

「まったぁ〜 ○○さん、そんなこと(コンプラ)言ってぇ、ホントは 仕事したくないだけなんじゃないのぉ〜?」 

なんて、たとえ冗談でもこんなことを口にしようものなら、大変な目に遭います。
このムードの中、だれもが「コンプラ」という印籠に閉口し、思考停止に陥って いるのです。

私が最近、これと同じ類いの厄介として気になっているのが、 「マニュアル至上主義」的な 発想です。

「書いてある通りにやれば間違いない」
  100歩ゆずって、これならまだいいでしょう。そこまで言うなら、ハードコピー付きの美しい手順書を作ってあげましょう。(感謝しろヨ)

「マニュアルは万能だ」
  そこまで言うか? 所詮は人間のやることだぜぇ。時代が流れれば陳腐化もするだろうよ。

「手順書がないと引き受けられません」
  手順書があってもなくても、どっちにしたって、あんなみたいな程度の人間には仕事は任せられません。


責任逃れの根性が、ここにも色濃く表れているように思えてなりません。

企業がマニュアルを導入するのは、低賃金で雇った労働者の仕事の成果に 正社員がやった仕事と同じクオリティを求めるときです。しかし、この徹底した マニュアル化がありとあらゆる業務に適用されるとき、業務は固定化し、 工夫がなくなり、発展もなくなります。

考えることを放棄させた現場組織は弱いということです。

マニュアルを引き継ぐとき、つまりレビューの段階で、字面を追っているだけだと、 その操作によって、「仕組みの内側」で何が起きているかが分からないままと なります。その状態を自分で是認していると思考停止となります。 そして事故が起こったとき、 「マニュアルに基づく作業の徹底を図ります。」 では、あまりにも情けないと思う。体外受精のような生命に関わる仕事なら、 マニュアルを軸として、個人の手先の器用さや、備忘や手順落ちを防ぐための 各人の独特の工夫が必要なのだと思う。そうした小さい努力が、やがて、 よりよい手順としての一般化へ繋がるのではないか。


B.ラッセルは、
ものを作る過程に喜びがある場合には必ずスタイルが生じ、したがって 生産活動自体が自ずと美的内容を持つに至る。 しかし、人間が機械に同化して 仕事の結果のみを重視してそれ自体を軽蔑するならば、スタイルは姿を消す。
  (参考:言葉の噛み応え)
と語った。かつては「社会の歯車」として生きることに不自然さを感じながら生きていた サラリーマンたちが、今時の世の中では、むしろその逆に、思考を停止させた ルーチンワークにコミットし、しかもそこに没入してほとんど違和感を感じていないという アイロニカルな現実から、私たちはいかにして脱することができるのか、悩ましいところです。

それでも私は、考えること、工夫すること、あえて違和感を感じることが、 いずれ大きな、よりよい価値の創造に結びつくはずだと信じたいです。
2009/02/25

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