★ 哲学=「世界」の説明方法
★ 従来の「世界」の説明方法 宗教 (=物語性を伴う)
例: 創世記が答える問い
 ・世界がなぜ存在するのか
 ・世界がいかに創られたか
 ・人はなぜ生きて苦しまなければならないのか
 ・なぜ死ななければならないのか
哲学
 @概念を論理的に使った説明(=非物語性)
 A原理(キーワード)を提出する(=原理思考)
 Bつねに一からやり直す(=再出)  
 
 「正しいか正しくないか」ではなく、「意味」が重要である。
 考えているか?
   →考えていない。既成の概念や見解から、自分の感覚に合ったものを
     選んで自分のものにしているだけ。
 アポリア(難問)やパラドックス(逆説)   →本当に哲学的テーマを考えることにはつながらない
これはトラップである 例: 「クレタ島人はみな嘘つきである」
→分析される言語と、通常使う言語の
  機能の違いを利用したトラップ
 4つのメタフィジックス(形而上学)
@すべてに因果関係が成立するか
A最小単位の物質はあるか  
B神は存在するか  
C死んだ後はどうなるか  
→正しい答がなければならない問題(アンチノミー=二律背反)であるように見える。
  これは解くことはできないと、カントが断定。
 アンチノミーは、結局、既成の推論方式の中からの選択と反復になってしまう。
 解Aも解Bも偶有的である。
 解Aも解Bも同じ資格で可能だ。
 解Aも解Bも同じ権利を持っている。
 解ける解けないではなく、解けないことが何を意味するのかを考えることが重要
カントは、アンチノミーを考えることで、「古い問いの立て方」の中で残っている
知的な権威を片づけた
★デカルト 「我思うゆえに我在り」
聞き間違え、見間違えがある → 感覚は役に立たない
この世は夢かもしれない → 世界の存在も怪しい
思考する自分の存在だけは確実だ
★ヒューム 確実なものは何もない
「社会も人間も、ルールの網目としてある」
★カントの自由 によって自由が与えられた」・・・・・× 理論として弱い
本性上、自由な存在であることを論証する試み
「道徳的行為」は、自由による選択によって起こされる
「自由気まま」は、本能に支配されているだけ
自由である限り、道徳的に生きることができる
「自由は道徳の存在根拠 道徳は自由の認識根拠」
★ カントの善 善の本質は神(聖なるもの)に由来しない。「理性」の力だけに由来する。
★ ルソー 統治原理は一つだけ (人間の本質が「自由」であることを前提とした統治原理)
いったん自分の「自由」を一つの政治権限にあずける。そして、この政治権限が、
成員の一人一人にこの「自由」を権利として確保する。
★ 社会契約と一般意志
『社会契約』
  ルールを少なくするほど、各人の自由は増す
  ↓
  結局、「強い者の勝利」に帰結してしまう(「強者の自由」「弱者の犠牲」)
  ↓
  全員が自分の「自由」を一つの政治権限に委託、この権限によって権力を設定する。
  ↓
  全員が対等の 「自由」 を確保できるルールを作る
『一般意志』・・・統治権力の正統性の原理
  @政治権力の最大の目的各人の「自由」を確保すること
  A各人(全員)の自由が目的だから、一部の恣意や利益を動機としないこと
   ↓
  【政治の基本ルール】  
  @社会の成員はすべてルールの下に対等である  
  A社会の成員はすべて対等ルールの決定件を持つ
  B何びともこの社会の成員たる資格を持つ  
★『自由』 カント 神に関係なく、人間の存在の本質が「自由」である
→これは甘い!! スコラ哲学に対抗する対抗論理にすぎない(考えとして深くない)
「自由でないのは世の中が間違っているからだ」
という素朴な帰結になってしまう。
「自由」の本質は「善きことへ向かおうとする意志」だ
ヘーゲル こんなのは「自由」の極端な理想化だ。それは一側面であり、本質ではない
「人間の本質」を自由とおいた上で、「自由の本質」を『自己意識の自由』と規定
  人間は生まれつき自由 → NG  
  人間は自由であるべきだ → NG  
  人間はより自由たろうとする本性を持っている (自由への欲求) (OK)
    ↓
  「本当に自由であるためには、どのような条件が必要か」という思考へと発展
カントの「善」の立場は?
すべての人が 「善きこと」 を目指して生きる社会とは、
万人が唯一の理想的状態に向かうような社会であり、
結局それは、人間の精神の自由という本質がまったく
無視される無内容な社会になってしまう。
↓だから、
× 最高の理性状態を目指す心性
○ 各人が「自由」を十全に確保でき、人間の人間的本質を
   開花させる社会的関係を作ること
↓だから正解は
正解→ 正しい答えは、万人が 「正しい人」 になることを目指す社会ではなく、
万人が自分の望む生き方を求めることができ、しかもそのことが互いの
幸福の追求を侵しあわず、むしろ相互にその追求を支えあうことが  
できるような社会の仕組みを考えることだ  
★ヘーゲルの『自由』 「自由たろうとする」 @「自己意識への自由」(アイデンティティ)
A「私の欲望」(自己欲望) = 自己価値への欲望
結局、「他者の承認」(承認ゲーム)を通してしか実現しない
★青年のアイデンティティ確保試行の3段階 (結局不毛だが) (ヘーゲル)
@ ストア主義 (禁欲主義)
「私はみんなのように醜い自我の張り出し競争なんかしない人間だ」
A スケプチシズム (懐疑主義≒相対主義)
「この世に絶対なんかない」
「見方を変えればみんな相対化されちゃうんだよ」
   これには弱点が: 他人の意見に批判的だが、自分の意見がない
強力な教養(キリスト教やマルクス主義など)を身につけ、
強固なアイデンティティを獲得する。
↓しかし
B 教養は強力だが、一方で、人間は誰でも不完全な生身の人間に過ぎない
教養と人間の乖離
不幸の意識
なぜ最終的に「不幸の意識」に落ち込んでしまうのか??
認証ゲームなしに自己意識の内部だけで自分の価値を認めようとする
(自己意識の自由を確保しようとする) ような不毛な試みであるから。
だから失敗する。
★社会主義 資本主義の根本矛盾は私的所有と自由競争にある
自由競争と私的所有の断固たる禁止が必要
政府の巨大な権力が必要
ルール権限は党が独占
「平等」のために「自由競争」を禁止するためには、各人の「社会的自由」をも禁止
「平等」と「自由」が両立しない
★キルケゴール 人間の本質は「絶望」である (『死にいたる病』)
→信仰という超越性を失った人間の、生の意味の喪失
★ニーチェ 「神は死んだ」
  ↓
神に代わる明確な生の意味を創り出していない。
哲学で語られるのは「道徳」や「善」ばかり。
(「生の意味をつかめない」ことが「絶望」の本質である)
  ↓
ヨーロッパは深いニヒリズム(絶望)へ
  ↓
ニヒリズムを徹底することで、ニヒリズムを超えよう。
  ↓
ニヒリズム克服原理としての「超人」「永遠回帰」
★フッサール 「現象学的還元」・・・・・「客観的事実」を、「主観の確信」へと変換
リンゴがあるから見えている ×
見えているからリンゴはある ◎
★差別 差別の本質
 → 一般価値(勉強できるのが偉い/金持ちが偉い/正社員が偉い)の中に自分を投げ込んだ状態。
一般価値から自分がこぼれるようなことがあると自分を救うことができない
(違う考え方ができないから)
狭い価値観、狭い世界像の中に自分を閉じ込めている
★フロイト 心理や無意識の構造仮説=実証科学だと考える → 治療経験を増やそう
ダメ
何故か フロイトの仮説は本性上「物語」的構造になっていて、
厳密な検証は原理上不可能
★自己了解 「自分自身のほんとう」 といったものはそもそも存在しない。
むしろ、人間とは常に自分自身を理解 (=了解) し続けている存在であり、
そこには単に 「よい自己理解」 と 「悪い自己理解」 があるだけだ。
「自己了解」 とは × 「本当の自分」 についての理解
◎ 自分自身を、あるより適切な仕方で理解しなおすこと
★「正しさ」 とは × ある特定の理想状態を作り出すこと
 多様で自由な諸関係から生じる諸矛盾や諸問題をうまく調停し、
   つねに多くの人間が納得できるようなより合理的で公正な関係のあり方を作り出してゆく努力
★人間の本質 × どんな境遇、どんな身分、どんな意見を持った人間か
◎ どのように自分を表現する、という点に現れる
人間の内実 自分の問題を
どのような仕方でもち、
これをどのように語り、
どのように対処し、行動するか、
その「仕方」がその人間の「内実」である
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